ホーム
あきんどの歩み
会員紹介
新着情報
元気の出るつぼ
会員名簿
ミナミあきんどクラブ会則
懐かしのフォトストーリー
▲阿倍野行 1832号 平野町にて 昭和41年
▲昭和31年に登場。大阪市電の最高傑作ともいえる優秀車。
▲大阪市電900形 昭和36年
▲昭和44年3月31日をもって大阪市内から市電の姿は完全に消え去った。
▲昭和44年3月末日限りの記念キップ
21枚綴の5円回数乗車券
志野 昌弘
志野(株)代表取締役
「ロバのパン屋は.....」と、路地から聞こえてきたのはもう40年前、その頃父親に連れられて、今里車庫前発、湊町行きの市電に乗り、難波の高島屋、心斎橋の大丸、等百貨店に行くことが憧れでした。戎橋、道頓堀の賑わい、グリコのネオン、食いだおれの人形、ペコちゃんの人形の頭を叩いて、北極星のキャンデーを買って帰る。一家4人で往復160円の優雅な南の1日でした。今程便利じゃなかったけれど、もっと、わくわく、どきどき、した街でした。出来るならそんな街にしたいものです。
中村 俊幸
電研工業(株)代表取締役社長
昭和37年4月、追手門学院の中学部に入学した。それまで実家の付近しか知らない「ぼくちゃん」は今はなき「チンチン電車」で通学する事になった。毎日が「遠足」で世界が広くなった記憶がある。桑津北口まで歩いて30秒、天王寺西門でまたチン電に乗り換え、椎寺町から上町筋を通りその当時は、近鉄線の終着駅「上本町のターミナル」の前をすぎ、「京阪東口」までの、片道50分くらいの小旅行だった。車内の座席は2列で、乗客は向かい合って座っていた。結構混んでいてほとんど立っていたが、たまに座れると教科書の入った重い皮のカバンを膝におき、「うたた寝」の時間であった。確か、運転手さんと車掌さんがいたが、いつのまにかワンマンカーになっていた。学生は定期券だが、電車賃は13円くらいと思う・・・少しして大阪市バスが走るようになり、都市交通は路線バスが主流になって行く。まだ「馬」が荷物を運んでいた平和な日本であった。
森川 秀樹
(株)広和 代表取締役社長
小学校の低学年の頃、市電に乗って下寺町から上本町六丁目まで行き、乗り換えて上町台地を京阪東口まで行って、学校に通った記憶があります。当時地下鉄もなく市電を利用していたが、非常に混んでいて上本町六丁目で乗りかえるとき一度では乗れなくて、次の電車に乗れても当時小学校の2〜3年生で小さかったため、周りが人垣で見えなく潰されそうになって、たいへんだった事を思い出します。当時の市電は一番まえのところに運転手さんがいて、其の部分は仕切があり入れなかったが、混んでいる時運転手さんが中に入れてくださってすごくうれしかったし、又目の前で市電を運転しているのをじっと見て一度は自分で運転してみたいなあと思っていました。毎日運転しているのを見ていると、なんとなく動かし方がわかるような気がして、自分が運転しているような気になったようにおもいます。其の事もあったせいか、自分で運転することに憧れて、バイクも車の免許も年齢に達するとすぐに取りにいったのも、この当時の影響かもしれません。小学校の6年生の時、弟が1年生に入学したので毎朝弟の手を引いて混んでる市電に乗って通っており、今度は弟を運転する囲いの中に入れてもらったことを思い出します。それからすぐに市バスが通るようになり、下寺町から乗り換えなしに天満橋まで往復するようになり、その後数年で市電が廃線になり、何時ごろなくなったかは定かではないが、あの鉄の箱が人をいっぱい乗せて上本町六丁目への坂道を、やっこらやっこら登っていった光景は目に焼き付いて、今でも思い出します。
浪田 昌治
浪田石油(株) 代表取締役社長
昭和40年代の初め、市電で中学校に通っていた。当時の市電には必ず車掌が乗っており、切符に穴をあけるパンチをカチャカチャ鳴らしながら車内を歩き回っていた。次の停車駅を告げる際の車掌の声色やイントネーションに個性があった。レールの遊びが大きく、スピードを出すと左右に大きく揺れ、吊革が左右の窓ガラスに当たってパチパチと大きな音を立ててうるさかった記憶がある。停留所として、道路の中央部に高さ50センチ位の石造りのプラットホームがあり、乗客は通行車両から身を守っていた。運転手は軍手を嵌め、左手に電流の強さを操作するハンドルを右手にはエアーブレーキのハンドルを持ちながら、左右のハンドルで微妙なバランスを保ちながら運転していた。運転手によって上手下手がはっきりしており、下手な運転手にかかると急ブレーキの連続で、乗客は前後に振り回され苦笑いをしたものである。それぞれの運転手や車掌には個性があり、乗客も乗車の都度、個々の車両の持つ雰囲気を楽しんでいたように思う。
次へ